COLUMN

世界内存在

ハイデッガーの 世界内存在 とは、
「世界の内にある、という在り方をしているものが人間だ」
ということで、言い換えれば、世界は人間(私)の構成分の一つであるということです。

私の身体も、目の前の机も、家も周りの景色も、全てひっくるめたものが私。たとえば、目の前の机は、子供時代からの思い出を全て含めて慣れ親しんだもの、として私には見えています。そういう見え方をしている机というのは、私の世界だけにあるものです。その意味で、そういう机は私の世界の一部であり、私という人間の一部と言ってよいのです。

ここで、机という客観的実体がまずあって、それに私が色々な思い出や意味を付与している、ということではないことに注意する必要があります。客観的実体がまずある、という考え方は、「諸法無我」にも反するものです。

この考え方は仏教の「三界唯一心 心外無別法」という世界観に近いものです。心が世界を生み出す、ということは、私達の心が実体としての机や、実体としての地球を生み出す、ということではありません。心が今までの心の歴史からそういう見え方の世界を生み出す、ということです。

赤いリンゴが一つあるとすると、それを”おいしそうなリンゴ”と見る人もあれば、”きれいなリンゴ”と見てスケッチする人もある。”毒でも入っているのでないか”と嫌な気持ちになる人もあるかもしれない。楽しい思い出を想起していい気分になる人もあるでしょう。

世界内存在

今の職場を”いい職場だ”と思って張り切って仕事をする人もあれば、”何と嫌な職場だ”と不平タラタラで仕事をする人もあります。職場は同じでも、それを見る人の心が違うから、見え方は全く異なるのです。

同じものを見ても同じ見え方をするということはあり得ません。それはその人それぞれの過去の行いが違うからです。そういう意味でそれぞれの生きている世界は、その人が生み出したものです。

ハイデッガーはそういう世界のあり方を ”世界内存在” と言いました。未来の世界は現在のその人が生み出すものです。あなたの未来を素晴らしい世界にするのも、真っ暗な世界にするのも、自身の心がけ次第ということです。

(Psychosomatic Labo, https://psychosom.net/column/sekainai/, July 2021)

<参考文献>
G.ベイトソン著/ 佐伯・佐藤・高橋訳 精神の生態学 (上) 思索社
M.ハイデッガー著/ 細谷訳 存在と時間(上・下) ちくま学芸文庫